~お浄土に住むご先祖の御魂(みたま)は、供養を受けることをとても楽しみにしていて、法要が始まる前から、施主ご家族とキチンと向き合い正坐して、各人からの真心を、正面から受け止められる。
だから、参列者も僧侶も、その場には真剣に臨むべきであり、法事を営む功徳の大きさを、けっして疑ってはならないのだ~

ずっと前に、“霊能を持つ”という人から聞いた言葉です。
こうした言を、
「荒唐無稽」「そんなものは仏教じゃない」
等と断じられる向きも多いことで、そうした方々に対しては、
「あなたのお考えの方が正しいです」
と脱帽し、絶対に争わぬ主義なのですが、私個人の内的感覚としては、冒頭記したような有り様が、現実の姿として、ありありと実感される昨今なのであります。

それなので、法要の始めには必ず、
「只今から、俗名○○××様、法名□□□□霊位、○回忌のご供養を申し上げます。
法要にあたりまして、故人さまに対し、合掌をお願いします…」
とお伝えし、同じく、法要を閉じる際にも、
「以上をもちまして、俗名○○××様、法名□□□□霊位、○回忌のご供養を終わらせていただきます。
どうぞ今一度、故人さまに対し、お手をお合わせください…」
とお願いするわけなのですが、それらの言葉は、施主ご家族・参列者に対してだけのものではなく、法事の対象となっている仏さまへの、「ご供養実施の宣言」でもあるのでした。

参列者が手を合わせ、故人を拝む時、浄土の“その人”も同じように、遺族に手を合わせ、皆を拝んでいます。
参列者が心の中で、なき人への想いを伝える時、浄土の仏は、その真心を真摯に受け取ったのち、参列者のひとりひとりに、「その人だけにしか聞こえない特別な言葉」を、必ず返しています。

人が仏を拝み、仏もまた、その人を拝んでいる…。
もしもそうした姿を目の当たりにしたなら、あなたは何を思うでしょうか?
そして、それは絵空事ではなく現実の姿だ、と申し上げたいのです。

この世に生まれ、この世で出会い、今は浄土に住む、ご縁深き人を、今日改めて思い浮かべ、その一生に手を合わせましょう。

そして、その合掌に応え、あなたに手を合わせる、なき人の姿を、心に描きましょう。
「仏に拝まれている我」を実感する時、心は自ずと洗われ、今日という一日は、美しくなることであります。

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