【彼岸へ渡る船(55) 雪かきの大切さ】

(積もった雪がとけるまで、どれだけの時間と、光量が必要なのだろう…)
降雪から二週間を経て、境内になお残る積雪を見て思うことです。

今、境内には、雪がなくなり地面が現れている場所と、雪が残り、なかなかとけぬ場所との、両方が同時に存在しています。

等しく降った雪なのに、両者のその違いは、何によって生まれたのでしょう。

ひとつには、日照時間の違いです。
言うまでもなく、日のあたる場所の雪は、徐々にではありますが、確実に減り、日の当らぬ場所の雪は、根雪となっていつまでも残っているのです。

ふたつめの理由は、「雪かきの有無」です。
広い境内、全域を人力で雪かきするのは難しく、お堂やお墓へ至る道など、参詣のお客さまが利用される場所を、優先して雪かきに励んだわけですが、こちらも言うまでもなく、早めに雪かきを行った場所は、二度目、三度目の降雪の折にも、雪が積もりにくく、反対に雪かきを行わなかった場所は、二度目、三度目という降雪の度に、積雪量が増してゆくのでした。

天から降ってくる雪を、途中で止める術(すべ)はありません。
また、日照時間を操作することも、叶いません。
それに対し、「雪かきをするかしないか」は、人それぞれ、家や店のそれぞれで、選ぶことができることでした。

周囲を見ると、店舗前や駐車場の雪を早々とかき、今はすっかり雪がない場所と、雪かきを行わず、結果、家の前の道路の雪が凍りついて、今なお通行不自由の場所と、現状は様々であります。

言わんとするところは、日々の天候から逃げることはできないが、それに対して、諦観放置するのと、対処努力をしたのとでは、「その後が全然違う」、ということです。

人の身に、人の心に、折々に雪が降ることは、避けられません。
それはたとえば、悲しみや苦しみ、悩み惑う出来事。
周囲から受ける、冷たい仕打ち、冷遇。
そして、怒り、貪り、妬み、などの煩悩。
それらは、誰のいのちにも降り、誰の心にも積もるのです。

ですが、いのちに降った雪、心に積もった雪を、ただそのままに放置しておくのと、自らの意思で雪かきに行おうとするのとでは、その後の人生、その後の心の状態が、大きく異なることです。

「心の雪かき」の具体的方途については、人それぞれで異なりますので、ここには記しませんが、
(身にかかり、心に積もった雪を、私はけっして放置しないのだ…)
と、自らに言い聞かせる次第です。

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