一年で最も日の短い時期=冬至を越し、それから約一か月経過して、一年で最も寒い時期=大寒を迎える不思議を思います。
一日ごとに日は伸び、暮れに比べると、日照時間は格段に増えているにも関わらず、です。

そうした自然の姿は我々に、
「今起きていることが、現象として姿を見せ、体感に至るまでには、時間差があるのだ」
ということを伝えます。

ですから、精神においても、肉体においても、
〈今感じていること〉と、〈今起きていること〉とは、
「必ずしも一致するものではない」
という可能性を、心に置き暮らす必要があります。

それは、善き方向、悪しき方向、両面において言えることです。

精神的苦悩と肉体的苦痛。
(この苦しみに果てはあるのだろうか…)
と投げやりになってしまいそうな時、実は「救い」の御手は既に差し伸べられていて、それが本人の許に届くまでもう少し、という状況が、少なからずあります。

悪口、嘲罵、人をおとしめ、心を傷つける言葉。
傲慢、独善、不親切な、我利我利(がりがり)の態度。
(自分さえ良ければいいのだ…)
そう侮(あなど)り生きる姿に、天眼・仏眼は常に注がれ、自業の「報い」が形となる日が、いつか訪れるのです。

そうすると、〈今感じていること〉に関わらず、私たちが取るべき態度、生きるべき姿は、「一つしかない」ことに気づきます。
すなわち、「善を進め、悪を止める言動」、それのみです。
なぜなら、今という時は、良き果を感得する前か、悪しき果が結実する前かの、どちらかなのですから。

キリスト教における『結婚の誓い』はこう問いかけます。

《その健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しき時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?》

私はこれを、新郎-新婦間の、「相互関係啓発のための問いかけ」だとは考えません。
実にはこれは、新郎・新婦の各人が、「神と交わす契(ちぎ)り」であり、「仏と結ぶ約束事」ではないか、と理解するのです。

そして、その言わんとするところは、
・いかなる時も、
・命ある限り、
・全てに対し、
・真心を尽くせ、
です。

ここにおいて、真理は極めてシンプル、かつ正直だと思います。

希望を捨てず、次の一歩を踏み出し続けた者の許に、そして、神仏のまなざしを想い、己を慎み続けた者の許に、やがて春は微笑むのです。

a0007_001635