「爽やかに生きる…」
ということを、今、改めて心に掲げ、暮らしています。

自らの生活に直接的な影響力を持つ人間の、挙動・言動に右往左往し、顔色をうかがい、疑心暗鬼にかられ、常に緊張と不安を抱きつつ、同時に、自分の立場を少しでも有利にしようと、姑息に立ち回ったりする…。
そんな日々が続く中で、精神は疲弊し、人格はひねくれ、人間性も委縮して、自分が以前よりもずっと、卑屈な人間になっているのを感じます。

それは「他人(ひと)のせい」ではなく、あくまで「自分のせい」です。
揺らぐことのない〈生命軸〉を自らの中に持たず、あっちへフラフラ、こっちでヘラヘラして、明確な目的や信念なしに、“何となく”毎日を重ねてきた愚かさの結果が、現在の「冴えない自分」の根本原因であります。

(苦しくて仕方ない。こんな人生をずっと続けるのはイヤだ…)
と、悩み、迷い、考え、また、悩み、迷い、考え…と、繰り返した末に到達したのが、
「相手の態度がどんなものであろうと、自分がとるべき態度は、常に不変、ただ一つではないか。
誠実に、親切に、笑顔で生きる。
精一杯の自分を、その都度、行く先々で、躊躇(ためら)うことなく、表すこと。
立ち止まらず、人と比べず、一生懸命勉強して、変化、成長を続けるのみ」
という平凡な答えでした。

そして、相手の態度、状況の如何(いかん)に関わらず、こうした態度を貫くことができた時に、立ち現れる心の様が〈爽やかさ〉で、それを総合的な人生の指針としたものが、冒頭に記した「爽やかに生きる…」という、大目標なのです。

ちょうど今は、「薫風・陽光・新緑」の季節で、それらに触れた時に感じられるような〈爽やかさ〉を、自分自身で生み出せたなら、どんなにか素晴らしいことでしょう。

しかしながら、述べたような「前向き・肯定的な態度」を、めげることなく貫くことは、簡単なことではありません。
相手の態度・言動が、自分の尺度・希望と、遥かにかけ離れたものだったりすると、
~微笑もうとしても顔が引きつったり、表情が自然と強張ったりする…。
~不誠実、不親切になり、心の中で、相手を罵ったり、侮蔑したりする…。
~みじめで悔しく情けなく、ホロリ涙が流れたりする…。
結果、溜め息をつきながら、
(あぁ、やっぱり俺には、こんな生き方は無理なのかな…)
と、投げてしまいそうになります。

けれども今日現在、中途で挫(くじ)けてしまわずに、何とか踏みとどまって、(爽やかに生きるのだ!)という決意を、保ち続けている自分が存在します。
何故なのか…?
それは、私が、
「仏さま・神さまに縋(すが)り、そのお力を頂戴しているから…」
に他なりません。

私は日々、仏前に額づき、手を合わせ、仏の名を呼んでいます。
神に救いを求め、どうかお力をお与えてください…と、切に念じています。
そして、そうした行いとは即ち、仏神に対して、
「自らの、心の窓を開くことだ」
という感覚を抱いております。

仏さま、神さまに対して、虚勢を張らず、自分の弱さをさらけ出し、心からの助けを求める時、仏神は必ず、その声に応えて、人々に救いの手を差し伸べてくれます。
それは、
〈起きている現実に変化をもたらす〉
という救いではなく、
〈抱いた心願を、保持する力を与えてくれる〉
という手立てによってでありますが、自ら開いた心の窓を通して、人は、様々な恩寵を受け取ることができるのです。

季節に仮託して申し上げると、今、外界には、〈薫風・陽光・新緑〉が在ります。
けれども、家の中に籠り、窓を開けずにいたなら、そこに風は通らず、陽も差しこまず、瑞々しい緑を目にすることもできません。
反対に、意図を持って窓を開けるなら、家の中を風が抜け、光が入り、開いた窓を通して、緑や花の美に触れることができます。

同様に、〈仏神の救済〉も、「今・そこ」に在ります。
しかしながら、こちらが、心の窓を閉め切りにしていたならば、その恩恵に浴することは叶いません。

ですから、私と同じように、生き辛さを感じ、心が折れそうになっている方がいらっしゃったなら、どうか、
「心の窓を開けてみよう…」
と、明確に意識をしてくださるよう願うのです。

自らの意思で心の窓を開く時、その窓の向こうには、あなたの努力・頑張りを、ずっと見つめてくれている、仏さま、神さまの眼差しがあります。
心の中を薫風が吹き抜け、慈光が差し込み、瑞々しき青葉が、心の塵(ちり)を洗い落としてくれるかもしれません。

それでも心は揺らぎます。
またすぐ千千(ちぢ)に乱れます。
だから毎日、心の窓を開け、その日に吹く新鮮な風と、新しい光を取り入れるのです。
移ろう季節の姿を見つめ、声なき説法を聴くのです。
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