名湯ではなく「迷いの湯」に、温泉ではなく「苦の泉」に、しっかり浸(つ)かる、という修行についてお伝えします。

昔から、「熱湯(あつゆ)を好むのが江戸っ子だ」といった風潮があって、江戸っ子を自任する者たちは、志ん生師匠のマクラを借りれば、「湯が足に食いつく」ような銭湯の朝風呂に、「こんなもん日向水(ひなたみず)じゃねぇか。いまメダカが泳いでたぜ…」なんて意地を張って、じっと浸かるのを自慢としたようです。

一緒に出かけた仲間と、「温(ぬる)いと唸るなぁ」とか、「温(ぬる)いんだから動くんじゃねぇよ」などと強情(ごうじょう)を張り合いながら、グッと我慢して熱いお湯に浸かり続けるわけですが、最初は飛び上がるほど熱かったお湯も、徐々に膚に馴染んでいって、発する汗とともに夕べのお酒や憂(う)さを流し、風呂から上がった後は、サッパリと気分一新し、その日の仕事に精を出したのでありましょう。

冒頭記したとおり、渡る世間、人生の所々に、「迷湯があり、苦泉に浸かる時がある」と感じています。
誰だってそんな湯に、好んで浸かりたいとは思わない。
自分が(そういう場所へ入った…)と感じた瞬間、一刻も早くそこから抜け出そうと、慌て、もがくことです。

努力が功を奏して、速やかに安楽な場所へ至ることができれば、それはそれで有難いことですが、そうやって焦り、慌て、もがくことが逆効果を生み、ますます深みへ入ってしまった…という体験を、多くの方がお持ちなのではないでしょうか?

また、少し否定的な物言いをし過ぎかもしれませんが、「苦の湯」から逃げるようにして上がった時というのは、少し経つとすぐに、同種の「迷湯」に再遭遇しがちな、そんな印象も抱く次第です。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候(そうろう)。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」
と、良寛禅師は諭されましたが、「これは全く以ってその通りなり…」と、お言葉の真理を、心底体感する昨今です。

人生の歯車が、何だか分からぬうちに、噛み合わなくなっている感じ…。
努力が空回りし、労多く、功少なき感覚…。
人間関係が滞(とどこお)り、疎外感や被害者意識を抱きがちな時期…。
頑張っており、前進をしているにも関わらず、家族全員が、何処となく鬱々とした精神状態にある…。

これら状況は、
「新たな生活環境の構築期、人生の過渡期、人間的な脱皮を要する時期」
などに、誰しもに訪れる〈天の配剤〉という解釈を、少しずつではありますが、持てるようになってきました。

盛りあがった波は、頂点に至ると、下降方向に向かうわけですが、下向きの波の中には、上向(うわむ)いていた時の波が持っていた力が、失われずに潜んでいるのであり、今の下降は、新たな上昇のために、必要不可欠な流れなのでありましょう。
下降する波に逆らって足掻(あが)いても、努力相応の果は得られぬこと、自明の理であります。

(迷いの湯に入った…)
と感じる今、そこから「一刻も早く抜け出したい!」と逸(はや)る心を、制する努力をしています。
当然、安楽な体感はありませんが、〈苦の泉〉の中に、ジーッと身を浸し、耐え忍んでいると、泉の持つ養分・薬効が、ジンワリジンワリと、身に沁みこんでいる感じがいたします。

意地を張って熱湯(あつゆ)に浸かる江戸っ子のごとく、唸りながらも平気を装い、時に念仏でも唱えながら、天の湯長から「よし。もう上がりなさい…」という指示が来るまで、迷湯にしっかりと身を浸(ひた)す覚悟です。
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