「人生八方ふさがり、という状況は、本当にあるのだろうか?」
という疑問を、以前提示させていただきました(メルマガ435号)。

私見は「否」でした。

東・西・南・北の「四方(しほう)」。
北東・南東・南西・北西の「四維(しゆい)」。
両者を合わせて「八方(はっぽう)」でありますが、「経済、健康、家庭、仕事、学問、趣味、食住、交友…」等、自らを取りまく生活環境を虚心に見つめる時、それら全てがふさがれ、どこにも出口がない、という状況は、まず有り得ないのではないか…。
そう考えた次第です。

最近は「八方」を、更に再分化して捉えています。
たとえば自らの「健康」について。
五官、脳、歯、手足、心臓、内臓、血管、排泄器官…。
自らを取りまく「人間関係」について。
親、子、妻、友、兄妹、甥姪、先輩、後輩…。
自らの僧侶としての「資質」について。
読経、説法、学識、所作、外見、態度、筆字、活動…。

いずれにおいても、全方角が完璧ではないけれども、絶対に「八方ふさがり」ではありません。
ふさがっている方角は勿論ありますが、開いている「恵方(えほう)」もまた、必ず存在しています。
我々の眼差しは、ついつい「ふさがっている方角」に向きがちですが、目を「恵まれている方角」へと転じ、その「恵方の力」を頂いて、人生を切り開いてゆかねば、と思うのです。

さて、そうした理屈を頭では理解できても、どうしても「ふさがっている方角」のことが気にかかり、閉塞感から抜け出すことができない、「体感的八方ふさがり」の時期・状態が、誰の人生にも訪れます。

そうした時期のために、仏教では「八方」を超えた別の視点を提示します。
それが「上方と下方」という二方向で、八方にこの二つを加えた「十方(じっぽう)」という世界観を通じて、「体感的八方ふさがり」からの脱出(超越)を試みるのです。

説明不要かもしれませんが、もしも自分の周囲、四方八方が、塞がっていると感じたなら、自らの精神と視点を、上昇させるか、下降させるかして、上下いずれかに移動いたします。
すると、自分を取りまく状況を俯瞰することで、何かしらの“気づき”を得たり、海に潜って海面を見上げた時のような、違う色の光が見えたり、平面的・限定的に捉えていた人生観を、転ずることができるのです。

実は私自身が、このところずっと、述べたような閉塞感に苦しんでおりました。
心が弱くなり、日々の暮らしが辛く、適応障害のごとき心身状態が続いておりました。
出勤を拒む心をなだめるため、出勤前のほんの短時間、ベッドに横になり、目を閉じて、深呼吸を繰り返しておりましたら、私の心に浮かんできたのが、「中」という一文字でした。

「中」と言う文字にある□(四角)が、ベッドに横たわる私の体です。
そしてその体を上下へと貫いて、ひと筋の道が通っています。
そんな分かりやすいイメージが、再生への一歩を後押ししてくれました。

(私は天の力に守られ、地の力に支えられている…)
(天の神の光と、地の神の熱が、私に救いを与えてくれる…)
自らにそう言い聞かせ、「中」という文字を心に描くことで、少しずつですが、元気を取り戻しつつあります。

そして、私を上下に貫く一本の線が示してくれた〈具体的再生方法〉が、
「天の眼差しと地の行為を持ちなさい」
という教えです。
それは知らぬ間に肥大した自我(自分が既に〈ひとかどの人物〉に成っているという思い上がり)を、打ち砕く槌(つち)です。

天の神さまの目に、自分の行いはどのように映っているか…?
それを考え、振り返りながら、暮らすこと。
生意気な自己を放下(ほうげ)して、もっともっと、下座行(げざぎょう)、下働きに徹すること。

上昇と下降、二方向の手立てを以って、「体感的八方ふさがり」を超越したいと願うものです。
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