ここ数日、玄関軒先を窺うように、ツバメが飛んでいます。
(もしかしたら去年ここに巣作りしたツバメ…?)

去年の巣は、そのままにしてあります。
その巣を使って、また今年も卵がかえればいいなぁ、と楽しみにしているのですが、ツバメたちが我が家のことを覚えていてくれて、遠く離れた場所から、
(またここに帰って来てくれたんだ!)
と思うと、心にポっと明かりが灯るのであります。

~お葬儀の際、弔辞や喪主様の謝辞などで定型的に用いられる言葉の中、仏教的視点からすると、(ン…?)と、ちょっと首をひねりたくなる表現に出会うことが、時折ございます。

一番多く気づくのは、「天国」という言葉で、
「天国に行っても、どうぞ私たちを見守ってください…」
という言い方を、多くの方がなさいます。
仏教的に言えば、「お浄土」と表現するのが本来でしょうが、しかしこれは、旅立たれた方が赴く「清浄・安寧なる場所」を指していらっしゃること瞭然であり、一々の指摘や訂正は致しません。

ただ私が、
(それはそうではないのですよ…)
と、折を見て、やんわりとお話しさせていただいているのが、
「故人は○月○日、永眠いたしました…」
といった喪主様の挨拶について、或いは、
「どうぞ安らかにお眠りください…」
という弔辞お言葉に対して、であります。

お浄土へ赴かれた“その人”は、極楽の世界で昏々と眠り続けるわけではない、というのが、仏教の生命観です。
また、「教義でそう説かれるから…」ということに留まらず、自身の抱く理念として、「人は死なない(魂は永遠である)」と信じ、実感もしている次第です。

では、お浄土に生まれ変わった後、なき人はどのようにしていらっしゃるのか…?

《彼(か)の国に至りおわって、六神通(ろくじんづう)を得て、十方界(じっぽうかい)に入(かえ)って、苦の衆生(しゅじょう)を救摂(くしょう)せん》
〔善導大師(ぜんどうだいし) 『往生礼讃(おうじょうらいさん)』〕

善導大師は中国浄土教の大成者です。
日本仏教へ与えた影響も大きく、法然上人(ほうねんしょうにん)は、比叡山の経蔵(きょうぞう=経典類の収蔵庫)にて、善導大師の著作に出会い、「口称念仏(くしょうねんぶつ)による凡夫の救済」を確信し、比叡山を下りて、やがて浄土宗開宗へと至りました。
(法然上人は「偏(ひとえ)に善導一師に依る」と仰られ、親鸞聖人は「善導独り仏の正意を明らかにせり」と讃えられています)

さて、上にご紹介した文章を、もう一度お読みください。
以下その文章を、駆け足で解説させていただきます。

~人間世界を旅立たれた生命は、しばしの移行期間(仏教では49日間)を経て、彼の国(浄土、極楽、天国等の名称で呼ばれる、清浄・安楽なる世界)に生まれかわります。
この生まれかわりを「極楽往生」と呼び、文字の示すとおり、死して後、人は「極楽に往き、仏として生まれる」のです。

肉体という〈制限〉から解放された生命は、本来具えている神通力(じんつうりき=人智を超えた不可思議・自在な能力)を獲得しつつ、仏の国で修行に勤(いそ)しみます。
そして、ついには我々の住む人間世界、ご縁の人々の許に帰り来たって、そこで苦しみに喘(あえ)ぐ者たちを支え励ます、救済活動を開始する~

これが、『往生礼讃』に説かれる「死後の世界」です。

お読みになって、皆さんはどのようにお感じでしょうか?
お旅立ちの後…
「無に帰し、涅槃寂静の世界で、眠り続ける」状態と、
「浄土に赴き、仏としての力を蓄え、再び人間世界に戻って、苦しむ人々を救いとる」状態と、
どちらが、ご自身の生命観に、しっくり来るでしょうか?

私の奉ずるところは後者。
そんなわけで、お葬儀をお勤めする度、私は重ねてお説き申し上げるのです。

肉体の死は、生命の消滅ではない、と…。
人は死後、眠り続けたりはしない、と…。
魂は生き続け、やがて、この世に仏として戻り、縁ある生命を励まし、力を与えてくれるのだ、と…。

旅立った生命が、時を経て、遠い場所から、自分の許へ帰って来てくれた…と感じる一瞬。
それは何と美しい人生の瞬間(とき)でしょうか。
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