表題「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」とは、
「煩悩(ぼんのう=心身を乱し悩ませる汚れた心)の存在が、菩提(ぼだい=精神的な目覚め・悟りの智慧)を得るための縁になる」
といった意味です。

ここで言う煩悩とは、あくまで自身の内的問題を指すわけですが、その解釈を広げ、
「煩悩=外的要因を含む、自らを悩み苦しめているすべての問題」
と、受け止めることも可能だと考えます。

そうすると表題は、
「今抱えている問題、即、自身成長の縁」
ということになります。

そして、こうした観察眼の徹底こそが、人生を切り開くための道だと考える次第で、その試みによって今、「問題」に対する受け止め方が変りつつありますので、以下、お伝えさせていただきます。

~自分を悩み苦しめる人物や状況について、これまで長きにわたり、
「人生の行く手をはばむ壁だ」
という受け止め方(感じ方)を、重ねてきました。

そして、
(あぁ、この壁さえ無ければ、どんなにか生きるのが楽だろう…)
と、壁の排除・消滅を願い、そうした「念」に、自らの精神的エネルギーの多くを、奪われておりました。

ですが、「煩悩即菩提」という視点を全面的に取り入れた時、目の前に在る壁について、それは単なる壁ではなく、
「自らの人格(魂)をステップアップさせるための階段の側面(垂直面)」
という見え方が、生まれてきたのです。

すると、そこには既に、階段の水平面が、同時に存在するのでありました。
そこは即ち、菩提(ぼだい=人格的成長・魂の脱皮)の水平です。

行く手をはばむ対象が、壁ではなく階段の側面だとしたならば、後は、「その階段を昇るか否か」という自らの選択しかありません。

もちろん、こうした視点を持ちながらも、
(己を悩み苦しめる対象に出会わずに人生を過ごせたら…)
という考えが頭をもたげますし、また、避けて通れる人物や事象であるなら、それは避けて通った方がいいに決まっています。

けれども、もし、今抱えている問題、行く手をはばむそれらが、自分の人生にとって、不可避の人物や事象であったならば、私たちは逃げることなく、それらに向き合わなければならないのです。
私たちは、その壁に跳ね返され、打ち負かされ、怨みつらみを述べ続けるために、この人生に生まれてきたのではないからです。

まずは、目の前の問題を、壁ではなく階段だと、明らかに見ること。
次に、その階段を「我はただそこを昇るのみ」と決意すること。
そして、そのために、精神的筋力を鍛えたり、登攀技術を磨いたり、神仏のお力に後押しをいただいたりしながら、その一段を昇り切ること。
そうやって、目の前にある不可避の階段を、その都度、その都度、昇ってゆくことが、私たちが今世に生まれてきた目的であり、人生の意味ではないでしょうか。

ステップアップを果たし、段上に立つのと同時に、そこには新たな景色が広がり、人は魂の脱皮を果たします。
そして、獲得する人格的成長(=菩提)の大きさは、昇った階段の垂直面(=煩悩)の高さに比例いたします。
壁が高ければ高いほど、得られる果は大きく、悩みが深ければ深いほど、得られる覚りも深いわけで、そういう意味からも、「煩悩即菩提」なのであります。

さて、最後にお伝えしたいことがあります。
それは、階段を昇った後に開ける、新しい視界・境地を、もし先取りして感じたなら…?という事柄です。

段上に立ち、足元を見つめる時、そこには、自分が克服してきた事象や、乗り越えてきた人物があります。
その上に立つことによって、自分はより高き場所へ、新たな地平へと昇ることができたわけです。
もし自分を、深く悩み苦しませるような事象がなかったならば、そういう人物の存在がなかったならば、魂の成長はそこで止まり、一段階上に昇った、今の私はなかったのです。

そうすると、かつて行く手をはばむ「邪魔者」と映っていた事象や人物は、実は自らが「踏み台」となることによって、私を上へ登らせてくれた「恩人」であったのだと気づき、手を合わせる自分が生まれるかもしれない…と夢想するのです。

ですから、それはとてつもなく難しい行為ではありますが、将来の境地を先取りして、もしも今、目の前にある壁に対し、心の底からの感謝の念と合掌を捧げ生きることができたなら、事象や人物として変らずに存在しながらも、それらは自分の行く手をはばむ壁としての機能を失い、人生の同行者となるのではないか…。
理想、夢想の世界かもしれませんが、そうした生き方を、人生の究極の目標として抱くものです。

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