数週間前、「過去に片をつける」という文章を記しましたが、今もなお、自宅の片づけは続いています。
お寺には〈定休日〉がありませんので、仕事の合間、或いは、勤務(自坊の他、別のお寺へ毎日通っています)を終え帰宅してから、の作業となり、なかなか一気呵成に、片づけを終わらすことができないのです。

それでも随分と、家の中の風通しがよくなりました。
余分なものを持たず暮らすことの心地よさを体感した今、もう後戻りはできません。
「捨てる・手放す」を更に徹底し、後から振り返った時に、
(あの時が人生の一つの分岐点・転換期だったな…)
と思えるような、暮らしの改革を断行する所存です。

さて、これまでそれほど意識に昇らなかったのですが、思い切った片づけを行う過程で直面させられたこと…。
それは、
(私はこんなにも沢山の“ストック”を抱えて生きていたのか!?)
という現実。
今さらながら呆れかえりました。

ストック(予備・在庫)は、家中の各所に、多種大量に蓄えられていました。
筆記用具(一生文字を書き続けても終わらない分量)、ノリ、ハサミ、テープ、カッター、コピー用紙など文具類。
歯ブラシ、歯ミガキ、石鹸、シャンプーなどの洗顔・おフロ用品。(加えて、ご挨拶等で頂戴した、名入りの白タオルもいっぱい)
洗濯用の洗剤・柔軟剤の類い、おフロ・トイレの掃除用品、ティッシュにトイレット・ペーパー。
油、醤油、調味料、パスタ、レトルトソース、そしてネコエサ…。

中には、購入してから数年たっても使用に至らぬ品もあり、それらは誰が何と言おうと必要以上の分量で、「在庫を抱える」という表現がありますが、
(あぁ私という人間は、こんなに多くの余分を抱えながら生きていたのか…)
と、しばし呆然とした次第です。

家中の各所に蓄えられている大量物品を見つめながら、これら余分なストックこそ、
(○○がなくなったら大変だ…)
という、私が潜在的に抱いている「未来に対する不安」の象徴なのだ、と思いました。
そして、不必要な物品に埋もれる中で、自分にとって本当に必要なモノが分からなくなり、真に求めているモノを見失ってしまうのだ、と理解いたしました。

それなので、古くなり、ずっと使用していないストックは、出来る限り処分をし、そして更に今、意識的に行っているのが、
「なくなってから、新しいモノを買う(=それがなくなった状態を体験する)」
というレッスンです。

何事においても、「なくなった状態」に触れずに、「常にそれがある状態」ばかりに接していると、第一には、そのモノの「貴重さ・得難さ・有難さ」に鈍感になり、感謝の念が麻痺してまいります。
そして、第二には、「なくなった状態」を体験しないでいると、それが自分の人生にとって、どれだけ重要で、どれだけ必要なものであるかが、分からなくなります。

一方、「なくなった状態」を体験してみると、その欠乏した品物の種類によって、即日必要なモノ、数日後に買えば十分なモノ、しばらくなくても大丈夫なモノ…という風に、自らの人生における重要度が見えてまいります。
それは、言いかえれば、自分にとって「なくてはならぬ大切なもの」の、再確認にもつながることなのでありました。
(くだらぬ一例をあげれば、私にとっては、お米はひと月くらい欠乏しても全く平気ですが、ビールは即日補充の対象でありました)。

災害時用の備蓄物品は例外として、今は、なくなってからそれを求めても、大抵の品物は、その日のうちに手に入ります。
また、歯ミガキがなければ塩で、シャンプーがなければ石鹸で、など、様々な代用品で暮らしは成り立っていきます。

“なくなる”の日常化によって目指すところの究極は、
「○○がなくなっても大丈夫。色々な方法で、お前は必ず生きてゆける。だから喪失を恐れず、お前の道を堂々と生きよ」
という、大安心(だいあんじん)の人生であります。
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