夕刻、ご本尊にお供えするため、長いお線香を手にとり、火を点けようとしたところ、ふとしたはずみで手が壁にぶつかり、1本のお線香が、三つに割れてしまいました。

皆さんなら、そういう時、どうなさいますか?

(折れたお線香をお供えするのは失礼かな…)
普段の私は、そんな風に感じて、割れてしまったお線香は、別の用途に充てていました。

けれども、その日はなぜか、別の考えが頭に浮かんだのです。

(長い、一本のままのお線香と、短い、三分割されたお線香と。
その総量は、どちらも同じではないか。
 だとすれば、長い一本のお線香を供える功徳と、短く三分割されたお線香を供える功徳は、等しいのではないか…)

その日、そんなことを感じた私は、三つに割れたお線香の、全てに火を点けて、三本の短いお線香を、仏さまにお供えしました。
一本、一本のお線香から、別々の香煙が立ち昇り、燃焼時間は短いけれど、漂う香薫は、より強く感じられました。

そして、瞑目、合掌し、一日の平安を謝する脳裏に、常より抱く、解答なき問いへの、新たな解釈が、ふと宿ったのでした。

その問いとは、長寿を保ついのちと、早世を余儀なくされるいのちとの、不平等について。
若くして旅立ついのちの、意味について。

そして、宿った新たな解釈は以下。

~長寿を保ついのちも、早世を余儀なくされるいのちも、人間として暮らすために持っている、時間の総量は同じ。
ただ、夭逝の宿命を持ついのちは、三分割された線香のごとく、長寿者が生きる一生分の時間を分割し、複数回の、短い人生を送るのではないか。
その人生は、短い分、より濃密なものとなる。
そして、平均寿命を生きる人たちの体験が、一つの肉体、一つの国籍、一つの環境…の中での、ある種、限定されたものであるのに対し、若くして旅立つ人は、生まれ変わるごとに、新たな肉体、別の国籍、異なる職業等を得て、より多くの体験を魂に刻み、神聖な光への階梯を、先んじて昇ってゆくのではないか~

勿論、仮にそうであったとしても、早世の深い悲しみが、薄まるわけでは、けっしてありません。
また、こうした解釈を、したり顔で、ご遺族にお伝えする気も、毛頭ありません。

ただ、どなたかの早世を、泣く泣く見送らねばならぬ時、その苦しき胸の内に、
「旅立つ人の〈人生の意味〉を信ずる心」と、
「後生(ごしょう)に向かう〈希望の光〉」を、
密(ひそ)かに灯しつつ、お見送りをさせていただきたい…。
痛切にそう願う私に対し、仏さまが与えてくださった〈お救い〉が、その夕刻、脳裏に宿ったこの解釈だったのかもしれません。

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