「民意(みんい)を問う…」
政治の世界で便利に使われる言葉です。
この言葉は、
「自分達にとって都合のよい結果が得られそうな場合」
にのみ、戦略的に用いられます。

たとえそれが、国民の意見を二分する事柄であっても、〈解釈改憲の理非〉や、〈原発再稼働の是非〉といった問題に対して、民意が問われることはなく、さらに言えば、〈辺野古への基地移設問題〉などでは、民意は無視され、「なかったこと」にされるのです。

ですから「民(たみ)」は、為政者にとって、
「利益(りえき)のある時には存在し、利益にならない時には存在しない…」
そうした扱いを受けるものであります。

さて、上記は現今の政治運営に対する不当性の訴えと、憤(いきどお)りの表明でありましたが、冒頭に記した「民意(みんい)」という言葉を、「神意(しんい)」という言葉に置き換えてみると、さした後ろ指は、同様に、自らの背に刺さるのでした。

人生には様々な出来事があり、悲苦・懊悩(ひく・おうのう)があり、私たちはその折々に、神に祈り、仏に救いを求めます。
自らが、進むべき方向を尋ね、加護を頼みます。

〈神の意志〉を「神意(しんい)」といい、〈仏の思い〉を「仏意(ぶつい)」と称するわけですが、自身の〈祈求・懇願・要請〉に応答する神仏の返事を、果たして私は、どれだけ素直な態度で受け取っているだろうか?と、自問する次第です。

今の自分を肯定し、自分に都合のよい状況に連(つら)なりそうな時には、その声を「神の意志」として崇(あが)め、真摯に耳を傾けようとするけれど、自らの非を戒め、行動を改めさせようとする「仏の警告」は無視をし、聞く耳を持とうとしていないのではないか?

神(かみ)に対して、私(わたくし)は、
「ご利益(りやく)のある時には存在し、ご利益のない時には存在しない…」
そんな風に扱っているのではないか?

そうした省察を、立ち止まり、致すのであります。

「神意」とは、どこに在るのでしょう…?
それは、縁起する、日々の現実の中に…。

では神は、昨日はいたけれど、今日はいない、というものなのでしょうか?

そう考えてゆくと、「よき答え」にのみ、手を合わせ、重用しようとするのは、偏向であり、片手落ちなのかもしれません。

自らが思い描く像と一致しなくても、「民意」に謙虚に寄り添おうと調整する政治家が、もし仮に万が一いたならば、「民の意」は別の姿を見せる気がいたします。

日々示される「神の意」を、人がもし、苦しみ悩みながらも、何とか汲み取ろうと努める時、「神意」は次なる高みへと、私たちを導いてくれる気がするのです。

「神意」を問い、「仏意」を尋ね、返ってきた答えに、素直に耳を傾ける訓練を積む中で、神仏と同調した人格が、具(そな)わるのかもしれない。
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