【縋(すが)る】つかまって身をささえる。(広辞苑)

~病床に臥し、今まさに臨終を迎えようとしている人の手の指に、五色(ごしき=青黄赤白黒)の糸が結ばれています。
そして、五色の糸の行き先を追ってゆくと、その糸は、枕辺に安置された、阿弥陀如来尊像の五指へと至ります。
縁者が低声で唱えるお念仏の中、その人は、阿弥陀さま御手の糸に引かれ、導かれ、安らかにお浄土へと、昇ってゆくことでありましょう。~

これは、現在はほとんど行われることのない「臨終行儀(りんじゅうぎょうぎ)」という仏教儀礼の姿で、旅立つ人を引き導く仏を、「糸引如来(いとひきにょらい)」と称します。
「糸を追う」と書いて、「縋(すが)る」という字になるわけですが、今生を終えようとしている人にとって、自分と阿弥陀如来が五色の糸で結ばれ、その糸に縋(すが)り(=つかまり支えられて)、安楽な後生(ごしょう)へと連れていってもらえること、どれだけ心丈夫なことでしょうか。

「すがる」というと、世間的には、弱き立場の者が強き立場の者に、未練がましく付き従うような、何となくあまり良くないイメージがある気もするのですが、文字の成り立ちや、弥陀引導の姿を思う時、それはけっして悪いことではない、ということを学びます。

そしてさらに申し上げるなら、〈人物〉を対象とした「すがる」ではなく、〈神・仏・菩薩〉等、我々を護り救って下さるどなたかを、「すがる対象」として持つことは、迷いの河を渡ってゆく、大いなる助力となることであります。

自身を考えると、本当に私の心は、不安の巣窟であり、心配の蔵であり、悩みの器、であります。
朝起きたくない、勤務先に行きたくない、あの人に会いたくない、そんな後ろ向きの気持ちに、定期的に襲われるのです。

そうした時、私は、考え方の工夫や、意志の力によって、精神状態を調整しようとするのではなく、〈縋るべき高位の存在〉の力を借り、否定的な自分を転換しております。
不屈・強固な精神力をお持ちの方なれば、「縋るものなんて自分には不要」と豪語されるかもしれませんが、本当に弱くて情けない私には、縋るべき対象が、生きて行く上で、絶対に必要なのです。

具体的には、
「縋るべき存在の名を呼ぶ」
ということを、生きる助力として頂戴しています。
すなわち〈お念仏〉、あるいは〈真言〉のお唱えです。

南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)。
南無大日如来(なむだいにちにょらい)。
南無釈迦牟尼如来(なむしゃかむににょらい)。
南無薬師如来(なむやくしにょらい)。
南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)。
南無地蔵菩薩(なむじぞうぼさつ)。
南無不動明王(なむふどうみょうおう)。

代表的な、仏・菩薩の名を羅列いたしました。
ご自身が信じ、頼り得る、具体的対象を、どうかお探しください。

次に一つだけ、万能最強の真言をご紹介いたします。
【光明真言(こうみょうしんごん)】
「オンアボキャ。ビロシャナ。マカモダラ。マニ。ハンドマ。ジンバラ。ハラバリタヤ。ウン」(天台宗の読み慣わし)
(効験空しからざる遍照の大印よ、宝珠と蓮華と光明の徳を有するものよ、転ぜしめよ、成就)の意。

苦しい時、辛い時、憂鬱な時、不安や心配ばかりを考えてしまう時など、ご紹介した〈念仏〉や〈真言〉を、心の中で、可能であれば、口に出して、何度も、何度も、唱え続けてください。

そして、そのお唱えに観想を加えると、「転迷」の効果はより強くますので、私が最近行っている方法をご紹介して、今稿を終えます。

~目を閉じ、胸の中に〈心の器〉をイメージします。
その中には、様々な感情・思念が入っており、もしかしたらそこは、黒く、暗い、悩みの種で満たされているかもしれません。
次に、どれか一種類のお念仏や真言を選び、心の中で、それを繰り返し、繰り返しお唱えください。
そして、唱えながら、その一唱ごとに、透明な膜で包まれた、小さな光のボールが、ひとつ、ひとつ、心の器に入ってゆく姿をイメージします。
何度も何度も真言を唱えるうち、やがて心の器は、透明なボールで一杯になり、黒く暗い、悩みの思念が、光のボールの隙間に分散されるように見えます。
心の器が、透明な光の玉で満たされ、それら同士が互いに触れ合った瞬間、光を閉じ込めていた、ボールの表皮の膜がいっせいに破れ、心の器全体が、眩しい真っ白な光で満たされるのを見ます。
そうしたら、その白さや、輝く光をしっかりと感じながら、深呼吸をし、静かに目を開けます~

どんな効能があるかは、人それぞれ違いますが、数分間こうした時間を取るだけで、随分と心は軽く、気持ちが楽になります。
どうぞお試しください。
a0960_004672