内容はつぶさに記すことができないのですが、成就しかけた希望ある人生展開が、まさかの豹変で、落胆へと覆(くつがえ)る出来事がありました。
その日は、『♪悲しくてやりきれない』の歌詞のような気持ちで、呆然として日を過ごしました。

でもお坊さんとして、「悲しみ」を、深くしみじみと心にいただくことは、とても大切なことだと思うのです。
なぜなら、その体験によって、「悲の風」が吹く、「哀の音」がする、お経があげられるようになるから。

現象として訪れた「悲のかたち」は、人それぞれに違っていても、ご法事の参列者と私とが、深き心の淵に抱く「悲の思い」は通底しており、お経を「唱え-聴く」中で、互いの「悲」が共鳴し、ひとりひとり(私自身も含めて)の心情に、いくばくかの、変化が兆(きざ)します。

その変化については、「自分に今、何が起きているのか」を、理論立て、具体的に説明するのは難しく、でも確実に心は動いており、ゆえに私たちは、そうした心の動きを、「癒し」「救い」「浄化」等と総称し、把握しているのだと考えます。

閑話休題…
状況急変の晩もまた、意気消沈し、やるせなく、寝つけませんでした。
(人生うまくいかぬものだなぁ。
どうして、こんな思いをしなければならないのだろう?
 なんであの人は、いきなり態度を変えて、平然としていられるのだろう?)
フトンを頭からかぶり、枕に顔を押しつけて、何度もそう問いかけ、ずっと考え続けました。

そうして明け方、ようやくウツラウツラしはじめた頃、心の中に、言葉としてではなく、ダイレクトな思いとして、次のような思考が突如現れました。

「それはお前が、遠い過去から重ねてきた、無数の悪業の結果だ。
 (あの人が悪いから…)、(この人が変だから…)、などといった、〈人のせい〉〈環境のせい〉では一切なく、お前の身に起こる出来事はすべて、お前が過去に播いた種が結実したもの。完全に〈お前のせい〉なのだ。
 お前が受ける仕打ちは、かつてお前が、相手に対して為した仕打ちであり、お前が聞く言葉は、かつてお前が浴びせた言葉、お前が抱く気持ちは、かつてお前が、その人に味あわせた思いだ。
それが分からぬうちは、お前はけっして救われることはない…」

ガバリ跳ね起きました。
(そんな訳あるか!そんなのおかしい!)
頭では、その思考の理不尽を否定しつつも、腹の底では、
(あぁそうなのか…)
と、妙に腑に落ちる自分がありました。

未明の本堂へ入り、灯明をつけ、線香を薫じ、ご本尊と対面いたしました。
そうして、今しがた、フトンの中で突如浮かんだ思考の真偽を、仏を凝視し、仏に問ううちに、己の罪業の深さへの、大きな悲しみが湧いてきて、私は仏前板の間に突っ伏して、ハラハラと泣きました。

重ねてきた嘘。はたらいた盗み。ふるった暴力。投げかけた侮蔑の言葉。見下しのまなこ。非情冷酷な仕打ち。両親への不孝。腹黒さを隠した偽善。動植物の不必要な殺生。他人の不幸を喜ぶ心…。

省みれば、「今生」だけでも、数え切れぬ罪業を造ってきました。
加えて、過去何世にも及ぶ“生まれかわり”の度に、積み重ねてきた罪の加算を思うと、己の背負う業の深さは、途方にくれるほどです。
けれども、自分が播いた種を刈り取るのは、自分しかいないのです。
自分の代わりに誰かにトイレに行ってもらうことはできないし、他人が行ったダイエットで私が痩せることもないのです。

「心からの深い懺悔を…。
事あるごと、思い出すたびに、懺悔の文を唱え、念仏を唱えなさい。
あなたの身に起こる出来事、体験するすべてを、全部〈自分の業の果〉として引き受け、心の中で、涙をながす気持ちで手を合わせ、懺悔し念仏するなら、その度ごとに、過去に造った悪しき因果が消えてゆきます。
その実践、その継続の、瞬間、瞬間に、あなたの人生は救われてゆくのです…」

どの位、板の間に伏していたでしょうか。
頭を抱えていた両手が、いつの間にか、額の前での合掌に変わった頃、心深くに、そんな言葉が伝えられました。

(できるだろうか…。私にそれが続けられるだろうか…?)
胸が苦しく、心臓がドキドキしていましたが、そうするしか、自分が救われる道はないのでした。

《懺悔文(さんげもん)》
「我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
 皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)
 従身口意之所生(じゅうしんぐいししょしょう)
 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)」
(わたしが昔から造ってきた諸々の悪業は、みな、遠い過去世からの、むさぼりと、いかりと、おろかさの心に起因しています。
 行いと、言葉と、思いとによって、生み出された、罪業のすべてを、わたしは今、心から懺悔いたします)

《お念仏》
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」

利己的・自己中心的な心ない振舞い、攻撃的で人を傷つける悪罵、人格を無視した理不尽な扱い…。
日々接するこうした諸々に対して、これまでは、ひたすら耐え忍び、心の中で相手を非難する生き方を続けてきましたが、今は、そうした出来事を、自らが造り出した「因果」と受け取って、心の中で手を合わせながら、ひたすら懺悔文とお念仏を唱える生き方に努めています。

時折、というか、度々、というか、
(こんな非道い仕打ちを、俺はホントに、過去この人や誰かにしたのだろうか?)
という疑問が、どうしても頭をもたげるのですが、悪業は無自覚のうちに造られ、そして、
「した方は忘れ、された方は忘れない」
性質のものです。
きっと私は、知らぬ間に相手を傷つけ、他人の痛みに無頓着な人生を、過去から今日まで、生きてきてしまったのでしょう。

人権の大切さが叫ばれる時代、もしかしたら私の選択は、時代に逆行し、個人の尊厳を削るような、間違った生き方かもしれません。
けれども今しばらくの間、辛い時、苦しい時に、今回述べた「懺悔の道」を選び、歩んでみようと思っています。
結果が予想できる生き方でなく、何処へ運ばれるのか分からぬ生き方の中に、己が救われる道があるような気がするのです。

(注記)
今回記した事柄は、全面的に私個人の人生観であり、「現象=自らの業の果」という見方を、他のどなたにも当てはめようとするものではございません。ご了解ください。
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