丹精こめて育て、たわわに実った稲を、刈りとらぬ人はいないし、
同時に、
何も生えてない田んぼで、〈エア稲刈り〉をしてる人もいないよね、
というお話です。

私は農村の寺に住しているのですが、周辺農家の皆さん、ちょっとした時間を見つけては外に出て、こまめに雑草を刈っていらっしゃいます。
油断をし、サボっていると、雑草は、あっという間にはびこってしまう、ということを、体験的にご存知だからでありましょう。

稲を刈ること、と、雑草を刈ること。
「刈る」という行為は同じですが、前者は、自らの意思で植え、育み、実りを迎えたものであるのに対し、後者は、自分で種をまいた憶えはなく、世話もしてないのに、ジャンジャン伸びてしまったもの、であります。

こうした姿を自身の人生に重ね合わせる時、良きにつけ、悪しきにつけ、「刈る」という行為を、日常的に意識することは、思う以上に大切なのではないでしょうか。

ポイントは、
「今日、そこに、何があるのか」
を見きわめること。

すなわち、
自分の前に、収穫すべき「精進の果」や、「天の恵み」はあるだろうか?
自らの心田に、刈り取るべき「妄念」や、「因果」の草は生えていないだろうか?
今日、果たすべき「課題」は何だろうか?

そして、それが確認できたなら、心の中に鎌を持ち、事務的にザクザクと、「なすべき本日の刈り取り」に進んでまいりましょう。

いずれにしても、刈ることができるのは、「そこに存在するもの」だけです。
冒頭、「エア稲刈りする人はいない」と記しましたが、自坊周囲の農家の方々、実ってない作物を収穫しようとする人も、生えてない雑草を刈り取ろうとする人も、いらっしゃいません。
なぜならそれは、全く無意味で、無駄な労力だから。

けれども人は意外と、“それ”をしているのでした。
たとえば私は、
種もまかず、育ててもいない、幻の果を収穫しようとしたり、
実際には起きていない問題を不安視して、何とかそれを刈ってしまおう、と無駄なあがきをしたり、
ということ、度々であります。

今日、そこにある、稲を刈り、草を刈り、エア稲刈りはやめる。
そんな風に生き、果の見える一日を、過ごしてゆきたいと願うのです
a1320_000210