洋式トイレで、立って小用を足す時と、便座に座って用を足す時とでは、随分と見える景色が違います。
前者と後者とでは、目の向きは前後反対になるわけですし、目の高さも格段に違うのですから、当たり前といえば当たり前なのですが、視点の置き換わりによって、見えなかったものが見え、気づかぬ場所の汚れに、気づいたりするのです。
そして、
(あぁ、女性はトイレに入っても、男性小用の視点から、この場を見ることはないのだな…)
と、くだらぬことを考えた次第であります。

さて…
数日前、鬱々と晴れぬ心を抱きつつ、境内の落葉掃きをしていた時のこと。
何とか心のモヤモヤを一掃できぬものかと、がむしゃらにホウキを動かしておりました。

しかしながら、心に浮かぶは恨み辛みの妄念ばかり。
そして、思いは次第に過去へと遡(さかのぼ)り、生まれてから今日までの、いくつかの分岐点の出来事を再現しては、
(あの時こうしていれば今は…)
(あの日にこうなっていれば今頃…)
と、詮なき後悔に、地団駄踏む我(われ)がありました。
情けない限りでございます。

浅ましき妄念の虜(とりこ)となっている私を憐れんでか、力こめ落葉を掃き寄せる私の心へ、こんな叱咤の“み声”が入ってまいりました。

《お前はどこまで、「どちらが自分の得か?」という目で、物事を見ようとするのか?》

《そうではなく、「どちらが自分の魂の修行になったか?」という目で、物事を見直しなさい…》

そうして“み声”は更に、次のような概念にて、私を諭すのでした。

~とうてい百年には満たぬお前の人生。
長いようだが、過ぎれば全て走馬灯の如し、本当にあっという間だ。
死ぬ時にお前の心に去来するものは、
「この人生で、どれだけ自分が得をしたか」ではなく、
「どれだけ己の魂を磨くことができたか」だ。
「どれだけ人から貰えたか」ではなく、
「どれだけ人に与えられたか」だ。
死ぬ日にする後悔は、今のお前の後悔とは、全く質の違うものなのだ。
嘘ではない。信じ、励むのだ~

“み声”の出所は分からず、それを受けて即座に、心に大転換が起きたわけでもありません。
しかしながら、言われるまま、「どちらが魂の修行になったか?」という視点で、過去の出来事を見つめ直してみると、自分が歩んできた道の方が、希望どおりにならなかった事の方が、たしかに魂の錬磨は大きかった、と断言できるのでした。

視点の置き換え。
文字にし、言葉で言うほど、簡単なことではありませんが、
《お前はどこまで、「どちらが自分の得か?」という目で、物事を見ようとするのか?》
という指摘は、イタタタタと、心に突き刺さったことです。

「後ろ」から「前」へと見る向きを換え、「短い」から「長い」へと目線を換え、「人の目」から「天の目」へと高さを換え、とにかく、
《どちらが魂の修行になるか…?》
という視点を、意地でも持ち続けてみようと誓う、今日の私です。

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