人生という“まなびや”を卒業した魂は、自己の全体像を把握する覚醒した精神体となり、今世を総括したのち、諸尊諸仏の導きのもと、次なる人生への準備期間に入ります。
そして、この時期に入った生命を我々は、仮に「仏(ほとけ)」と呼び、その住む世界を「浄土」と称するのです。

しかしながら、「長らく宿っていた肉体から精神体への転換」という出来事は、多くの人にとって一大事件ですので、戸惑いや動揺を生じたり、一時的な迷いや混乱に陥ったりすることも、けっして不思議ではありません。

ゆえに、この世を離れる際の、
「肉体から精神体への移行が、滞(とどこお)りなきように…」
と祈って修するのが、〈枕経・通夜・葬儀・告別式〉等の祭祀であり、さらには、
「次なる肉体新生に向けた、準備期間の助力となるように…」
と願って行う善行が、〈追善供養〉の仏事であります。

一方で、「人の命終」が「仏の誕生」という意味を持つものだとしても、故人の旅立ちを見送る遺族においてそれは、「親愛なる縁者との離別・喪失」でありますので、ひたすらに亡き人の供養に努めるだけではなく、遺族自身の心を慰安する手立てを、様々に考えてゆく必要もあるのです。

「故人成仏への資糧」にもなり、同時に、「遺族悲嘆への癒し」にもなる、心の運び方…。
それが今稿題名で、「持ちつ持たれつ」と表現させていただいた、故人と遺族とが、感応道交(かんのうどうこう)しながら生きる、日々の過ごし方です。

肉体を離れ、浄土へ赴(おもむ)く際に、各自がその人生を通して学んだ知恵や、体験した出来事が、無に帰すわけではありません。
人は、生涯を通じて、学んだもの、乗り越えた苦悩、出会った人々、尊き思い出など、全てを携えて浄土へ往き、それらを礎(いしずえ)として、仏へと生まれかわってゆくのです。

ですから、親愛なる者を見送るに当たって、まずは、
「旅立ったあの人は、自分とのどのような思い出を持って、仏の国へと向かっただろうか?」
と、心に思い描きます。
そうした後、
「あの人がそうしてくれるのなら、私はあの人と過ごした日々の中から、何を胸に抱いて、これからの人生を生きてゆこうか?」
に、思いを馳せるのです。

そこで確認されることは、
第一に、故人生命は消滅したのではなく、場を変え今も存続している、という事実。
次に、故人成仏の悟りの中には、共に生きた日々の出来事が内包されている、という気づき。
そして、これから先も、その人と一緒に歩いて行くのだ、という決意。

故人が持って行った私との思い出。
私が保持してゆく故人との思い出。
持ちつ持たれつ、であります。

(あの人の中に、私との思い出が生きている…)
という遺族の思い。
(みんなが、自分のことを忘れずに生きてくれている…)
という故人の思い。
彼岸の世界と、此岸の世界、居住場所は異なれど、道は交わり、思いは行き合います。
そして、行き合いは、すなわち、生き合いです。
仏と私とが、相互に扶助し合いながら生きてゆく一歩、一歩…。
それもまた、人間だからできること、でありましょう。
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