公務登叡の機会あり、帰途、新幹線に乗る迄の空き時間に、京都岡崎・永観堂禅林寺へ詣でました。
同寺はご存知のとおり、「もみじの永観堂」として名高く、ご本尊もまた、「みかえり阿弥陀」として、よく知られています。

十一月初旬、好天の平日…。
本格的な紅葉には、まだ少し早いため、観光客でごった返す、ということもなく、落ち着いて参詣ができました。

(美しいことだなぁ…)
そう感じたのは、緑から赤へと、次第して色を変えつつあるもみじの葉。
紅葉(こうよう)は、一本の木についている葉が、一斉に色を変えるのではなく、枝先の葉から、幹近くの葉へと、順々に色づいてゆくようです。
それなので今の時期は、一本の木に、赤い葉っぱ、緑の葉っぱ、そしてその中間の、赤と緑が混ざった葉っぱ、と、様々な色の葉が同居しているのでした。

「木」という単位でも、早く色づき始める木と、少し遅れて色を変える木とがあるわけですが、その一本の木においても、早めに色を変える葉と、遅れて色づく葉とがあることを、改めて知った次第です。
十一月の初旬、という時間点だけをフレームに収め、世界から切り取るなら、早期に紅葉している葉は貴ばれるものかもしれませんが、その限られたフレームをはずせば、残りの葉もやがて順々に色づくことで、紅葉成就の早い遅いに優劣をつけることは、まるで意味のないことでありましょう。

永観堂禅林寺のご本尊「みかえりの阿弥陀さま」は、後から来るものを、「待っていてくれる仏さま」です。
そのお姿は、通称のとおり、首を左にかしげ、後ろを振り向いておいでです。
お顔には、穏やかな微笑みがあり、小さく開かれたお口からは、後ろから遅れて来る者を、優しく励ます、尊きお声が聞こえるような気がいたします。

《現代の私たちが、みかえり阿弥陀のお姿に教えられるもの、それは、遅れる者を待つ姿勢、思いやり深くまわりをみつめる姿勢、そして自分自身をかえりみ、人々とともに正しく前へ進む姿勢。それはまた、阿弥陀さまの私たちへの想いなのです…》

永観堂さまパンフレットに、記されているお言葉です。

永観堂は、本当に優しいお寺で、お参りすると、フッと心が緩むのです。
それは永観堂全山に、みかえりの阿弥陀さまの精神が行き渡り、お寺全体が、みかえりの阿弥陀さまのお心に包まれているから、ではないでしょうか。

こんなことを書くと語弊があるかもしれませんが、それはたとえば、厳格な修行を全面に打ち出すお寺や、豪壮な山門・芸術的な庭を特長とするお寺、あるいは、皇室ゆかりの高貴なお寺…などをお参りした時とは、微妙に異なる心身の緩みを、このお寺は訪れる者に与えてくれるのです。

「私も〈みかえりの人〉になるのだ…」
そう願いました。
「厳しさや強さ、優秀さ気高さなど、自分が人よりどれだけ凄いかを誇りとする人間ではなく、自分のそばへ来た人の、心が、体が、フッと緩むような、そんな人間になるのだ…」
そう念じました。

待っていてくれる親、待っていてくれる友、待っていてくれる教師、待っていてくれる上司、待っていてくれる政治家、待っていてくれる医者、そして、待っていてくれる宗教者…。
待ち、みかえる力を持つ人を、時代は、望んでいるのではないでしょうか。

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