振り返ると、生まれてから今日まで、半世紀を超える人生のほぼ全ての日々に、犬か猫かのどちらかが傍にいてくれました。
(大学で寮生活を体験した時も、内緒で捨て猫を居室に囲い、退寮の折には、そのネコを自宅に連れ帰ったりもいたしました)。

現在も二匹のネコと暮らす日々の中、今まで考えなかった思いを、抱くようになりました。
それは、
(人が動物にかけている愛情は、彼らの中に蓄積されてゆくのではないか…)
という思いです。

そして更に思うのです。

人から優しくされ、大切に扱われ続けた、動物たちの心の中には、やがて、
「自分も人になって、ネコやイヌを大事にしたいにゃー」
という思いが、芽生えるのではないか、と。

そして、かけられた愛情の総量が、彼らの中で一定量に達した時、“いのち“に特別な変化が生じ、次の世では、動物から人への生まれかわりが起きるのではないか…。
そんな妄想を抱く昨今なのです。

『元犬(もといぬ)』をいう落語をご存知でしょうか。

~浅草蔵前に、頭の先から尻尾の先まで真っ白、という犬がおり、界隈の人から可愛がられていたところ、
「白犬は人間に近いというから、きっとおまえは、来世で人間に生まれ変われるぞ…」
という話を耳にします。
話を聞き、希望を抱いた白犬は、
(どうか人間になれますように…)
と八幡さまに願をかけ、お百度を踏むようにお参りを重ねたところ、いよいよ満願の日、一陣の風とともに毛皮が抜け落ち、本当に人間に生まれかわります。
そこへ、かつて白犬だった頃に、よく可愛がってくれた人が通りがかり、その人の世話で、町内のご隠居の家に奉公することになる~

といった噺(はなし)で、奉公を始めた後、所作の節々に、つい「犬だった頃」の習性が出てしまい、そのトンチンカンな振る舞いが、笑いの種になっています。

落とし噺の分析、なんて、全く野暮なことですが、私が今いだいている妄想のフィルターを通してこの噺を聞きなおし、「人としての生きる道」を学ぶなら、ポイントは次の三つです。

①白犬が界隈の人たちから可愛がられていたこと
②白犬が願をかけ、実際に、神仏に祈る行動をしたこと
③残っている前世の習性を、失敗しながら修正してゆくこと

①白犬が界隈の人たちから可愛がられていたこと
もしもその犬が、周りの人たちから、いつも苛(いじ)められ、乱暴に扱われていたなら、どうだったでしょう?
白犬の心に、
(いつか自分も人間になりたい…)
という希望は、生まれたでしょうか?
もしかしたら、
(あんな生きものになるのなら、今のままでいいや)
という思いで、現状に留まっていたかもしれません。

これは「対動物」に限っての話ではありません。
家族をはじめ、自分の傍に暮らす人たち、日々接する人たち、に対して、愛情を持って接し、大切に扱うことの重要性を、改めて思うのです。
投げかけた愛情は、相手の心の中に蓄積されてゆき、何処かの地点で、“いのち”に飛躍的な成長が生じる…。
そうした可能性を生みだすために、私たちは常に、人に親切にし、相手を丁寧に扱わなければならぬのです。

触れ合う人の心の中に、
(私もいつか、こういう振舞いが出来る人になりたい…)
といった希望を抱かせられるような生き方を、と望むのです。

②白犬が願をかけ、実際に、神仏に祈る行動をしたこと
「漠とした願い」を持つだけでは、現実は変わらないと考えます。
「こうなりたい…」という明確な目標を持ち、そして、自分の上位者、超越者のまなざしを想い、その目にかなう「行動」が伴った時に、変化は生まれるのではないでしょうか。

③残っている前世の習性を、失敗しながら修正してゆくこと
元犬だった人が、以前のままの振舞いによって、周りの人たちから、
「おいおい、お前さん、ちょっと…」
と不審がられる落語を笑う私でありますが、でもこれは、けっして他人事と笑えぬことなのです。

生まれかわりは、「動物~人」になって完了ではありません。
「人~人」という幾度もの生まれかわりを体験し、その人生ごとの学習を続けてゆくわけですが、私たちの中には「獣性」といった性質がまだまだ沢山残っており、そして、その習性を、人生の節々に、つい露呈させてしまっている気がいたします。

白犬が願いを起こし、人へと生まれかわったように、私たちも、人の次には、「人~仏」「人~神」という生まれかわりを目指し、生きざまを修正してゆかねば、と考えるのです。
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