「仏の顔も三度」と申しますが、日々拝む自坊ご本尊のお顔は、常に慈悲深いままではなく、拝する度(たび)に違って見えます。

それについては、
「その日・その時の、私の生き方・私の心が、仏さまの顔に映し出されるから…」
という解釈が一般的なのでしょうけれども、私はそうした、
「仏の顔は、自らの内面を映し出す鏡」
という理解を超えて、
「仏の顔は、微妙にだけれど、本当に変化する…」
という気がしてならないのです。

仏に手を合わせて念ずる、私の心の声は、ご本尊を経由して、仏神の世界へと、瞬時に至ります。
そして、その声を受け止めた、大いなる仏さま・神さまは、ご本尊を通してまた、“ことづて”を返してくださるわけで、そこに込められた仏神からの念(私の思いへの答え)が、ご本尊の表情を微妙にお変えになるのではないか…。
そんな考えを抱くものであります。

さて、ご本尊に手を合わせ、念ずることの第一は、仏神ご加護への感謝。
併せて、その日、その都度の、「願いごと」であります。

(本当に人は、仏さま・神さまに対して、際限なく、お願いをするものだなぁ…)
と苦笑してしまうのですが、家族の平安、縁者の健康、仕事の成功、目標の達成…等々、自利の願いから利他の願い、小願から大願まで、毎日、毎日、願いごとは尽きることがありません。

そして当然ながら、願いごとの全てが思いどおりに叶う、ということにはならず、時には、自分の思いとは裏腹の結果が出ることもあります。
そうした折に、今、試みているのが、願いどおりではない状況に対して、
「これが成就だ!」
と、自らの中で、高らかに宣言すること。
そして同時に、口角をグイっと上にあげ、意識的に笑顔を作ること、です。

それによって何が得られるのか?と言えば、己の人生に向かってゆく、気合い、覚悟、そして、新たな視点からの学び、であります。

人が仏神に対して願いごとをするのは、仏さまや神さまが、「人智の及ばぬ不可思議な力を持っている」と、考えてのことではないでしょうか。
だとするなら、その成就の仕方についても、私の思いもよらない方法で、もたらされるのかもしれないのです。

だから、うまくいかなかった出来事に対しても、
「俺の目にはそう見えないけれど、神の目から見ると、実はこれが成就なのだ」
と信じ、受け止めてゆく。
そして、
「では、これが成就だとするなら、この成就を、どのように次の成就につなげてゆけばいいのだろう?」
と考えてゆく。
そうすると、思いどおりにならない不満で行き詰まる人生が、別の方向(自分の想定枠を超越した方向)へと、展開してゆくのでした。

また、どうも人は、自らの願いが100%満願成就した時点でないと、満足できない性質(たち)のようで、こちらの願いを聞きとめてくださった仏神が、願いの最終的な成就へ至る道筋をつけてくれ、その途上で、身近な成果を与えてくれているにも関わらず、
「いや、違う、違う。私の求めているのは、こんな小さなものではなく、もっと大きな別のものだ」
と、せっかくの成就を無視したり、“受け取り拒否”のような態度をとってしまったりする傾向も、我が身の中に見出す次第です。

「あぁ、今日はこんな成果があった」と、日々の小願成就を拝受する意識。
加えて、「三歩進んで二歩下がる」という、進歩形態の理解。
その両者によって、人は大願成就へ至るのだ、と考えます。

それなので今日もまた、
「これが成就だ!」
と宣言し、ニッコリと口角あげる私です。
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